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2007年 01月 15日 ( 1 )

あ、サイコンタン

じゃない!

スイマセン

明日から
マタ
in 京都
デス

んでもって
お通夜のお話を
考えてゆかねばならず
・・・
試行錯誤の結果

岡本太郎(仮名)
市水道課職員(仮想)

が亡くなった事にシテ
お説法を
考えていたので

マ、今から
再考もセネバナラズ
デスガ

ソノ文章を
貼り付けさせていただきます

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本日は岡本太郎さんのお通夜にご参列頂きありがとうございます

享年は78歳でございました

太郎さんは市の職員として長年勤めておられました
その中でもっとも長く勤められたのが水道関係を取り扱う水道課でした

現在日本の水道普及率は97%と今やどの家庭にも水道が通っている状況です
しかし昭和30年に全国簡易水道協議会が発足し、全国へ水道を普及させようと言う取り組みが始まった頃は30%未満の普及率だったそうです

ですからその当時は、井戸から水を汲み上げたり、大甕に水を溜めておいてそこへ汲みに行かねばならなかったりしたわけです。

一説によると人が一日に使う水の量は60ℓと言われています。
バケツ1杯が約15リットルですから1日4回、5人家族だと20回
一年間だと6000回もの水汲み往復をしなくてはならないのです。

その重労働が今では蛇口をひねればいつでも水が出てきます。

我々が安心して水道を使えるのはその水道を管理してくれている水道課を始めとした方々のお陰です。

雨が降ろうが雪が降ろうが点検や修繕のために道路に穴を掘り、心無いドライバーから罵られたりしながらも、地面にもぐり黙々と作業をこなす・・・

私達に代わって泥にまみれ水にまみれ水を供給して頂いているわけです

かといって誰から褒められるわけでもありません
逆に水道が使えないと凄まじい苦情を受けるわけです

しかしたとえ怒られようと怒鳴られようと、ただただ頭を下げて、その問題点を解決していきます。

これは仏教で言えば菩薩行です

自らお選びになった道ではありますが、見返りを求めることなく、他人のためにその行を積んでいる・・・
このような太郎さんの生き方・・・残された私たちは学ぶべきところが多いのではないでしょうか

ある水道会社の方がこのようなことを書かれていました

フランスでは「水は黄金」 スイスでは「水は命」 水は土や空気とともに、人々の生命と生活の基盤であり、健康で文化的な暮らしを支えるライフラインであり欠かすことの出来ない資源であります。
人が生活していくためには、水は不可欠である、その大切な「水」を扱う仕事に付いたということは、公衆に対して多大の責任と義務を果たさなければならない、命を預かる仕事だと思っております。

私たち人間を初め、この世の全ての生き物は水がないと生きて行けません

皆さんはお仏壇にお水やお茶をお供えになると思います。

これは何のためだか御存知でしょうか

確かに仏様やご先祖様にお水やお茶を頂いてもらうためですが
このお水は、私たちが今日もお水のある生活をさせて頂いています。
そして、私たちを始め、身の回りの全ての生き物にうるおいがあり、今日一日を無事に健康に過ごすことができます。有難う御座います、という意味の仏道修行な訳です。

明治時代に岡山県で宣牧(ギボク)という小僧さんが儀山和尚という方の元で修行を為さっていました。

あるときその小僧さんが手桶に水を汲んで師匠のところのたらいに水を張って戻ろうとしました。

空になった手桶を何気なく振り回して帰っていると、手桶から水が滴り落ちました。

それを見た和尚さんは「おい、ギボク。今そこへ水を一滴捨てたぞ」と静かに言いました。
ギボクはしかたなく「はい」と言いました

すると「はいではない。返事をしたからにはその水を拾え」と仰ったのです。
現代の科学技術をもってしても、その落ちた水をそのまま回収することは不可能でしょう。
かといって和尚さんが、小僧さんに意地悪をするために言ったのでもありません。

それではどういうことか?

一滴の水でももったいないから無駄にするなということもあると思います。

臨済宗では参禅と言って、師匠が弟子に、日常生活の中で、いつの世も代わることのない真理に関する問題を出します。
つまり、その落ちた水の真理を拾いなさいということです。

この落ちた水は、やがて蒸発して水蒸気となるか土にしみこみ地下水となるでしょう。
そしてその水は川の流れとなり、そのまま私たちの飲料水となったり、海へ注ぎ、海の生き物を育む元になるかもしれません。

そしてまた私たちの体内に取り込まれ自分自身となるかもしれません。

このように考えると、その落とした一滴の水は
土であり、雲であり、川であり、海であり、私自身であるわけです。

つまり、その一滴はこの世の中そのものであり
またこの世の中そのものが自分自身と何ら変わりがない
そのことに気付きなさい、ということだったのです。

私たちは水は水、自分は自分という分別の世界に生きています
自分は自分、親は親、他人は他人と

確かに自分は自分ですし他人は他人です

しかし土も水も自分自身です、他人も自分自身です。
いいことも悪いことも他人への係わり合いも思いやりも巡り巡ってくれば自分の元へ帰ってくる

そのことをもう一度思い直してみてはどうでしょうか

黒田長政の父、黒田孝高(よしたか)は
水五則と言うものを伝えております

1.自ら活動して 他を動かしむるは水なり
2.常に己の進路を求めて止まざるは水なり
3.障害にあい 激しくその勢力を百倍し得るは水なり
4.自ら潔うして他の汚れを洗い 清濁併せ容るるの量あるは水なり
5.洋々として大洋を充たし 発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰と化し 凝っては玲瓏たる鏡となり 而もその性を 失わざるは水なり

谷沢永一という方がこのようなことを言われています。
「最上の善は、水のようなものである。
水は、丸い器に入れば丸くなり、四角な器に入れば四角になるといったように、決して万物と争わない。
しかも衆人がいやがる低い位置に身をおく。
だから、水こそ仏道に近い存在といえる。」

「水は方円の器に従う」と言う言葉があります。
形にたがうこともなく、大きさにたがうこともなくその器に従って形を変化させる。

私たちの身の回りに当たり前の様に水は存在しています。
その水から学ぶことも多いのではないでしょうか

そしてその水を私たちの中に当たり前のように存在させてくれた太郎さんの思いからも、私たちは多くのことを忘れないようにしなくてはいけないと思います

今日はお通夜です。
通夜とは、お釈迦様が亡くなられた夜に、弟子の方々が、一晩中、お釈迦様の教えについて語り合ったことから始まったと言われています。

今日の夜は、太郎さんが私たちに残してくれた思いを語り合っていただきたいと思います。

以上でお話を終わらせていただきます。
本日は有難うございました。

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えー
ヨロシケレバ
ご感想など・・・
アレバ幸いカト
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by kouhouji | 2007-01-15 21:50