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2007年 02月 11日 ( 1 )

第2部

えー

昨日に引き続き
臨黄協議会

お話

ツヅキ
・・・

ナンカネ・・・

まー
ワタクシの
言葉では
ナイミタイ
ですが

作ったのは
ワタクシです

当日は
書記を担当していたので
全ての
発言内容が

イマココニ
あるんですわ

ハイ

ンナモンデ
それを元に


せっかく
内容の濃い
討議だったので
マトメテミヨカナ

と思って

今回は
4部構成の
第2部

デス

デワ

ドゾォ

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祈りについて

衣食足りて礼節を知る、という言葉があるが、その日の食事にも困窮している人たちが祈りなさい、という事を実践できるのであろうか。「お前たちは苦労を知らないからそんな綺麗事を言えるのだ」と言われた和尚もいる。
困窮している人ばかりではない。皆と同じように学校に通う子供達は、先生から注意を受けると「教育委員会に訴える」と言い、そのことで実際懲戒を受けた先生もいる。そうなると教育の現場では事なかれ主義・・・注意をせずマニュアルに従い、ただ授業を進めていく。心の交流のない無機質な人間関係しか成り立たない悪循環の状態が慢性化してしまっている。
また家庭では、親が自分の理想を子供に「託す」という形で押し付けることで、子供が自らの人生観を見つめることを奪われている。
これらの問題の根底を考えたとき、それぞれに伝えるべき言葉が希薄である、と言うことが言えるのではないか。本来であれば子供に伝えるべき大人の言葉は自ら汗を流し、大真面目に取り組んできたところから湧き出てくるものであるべきだが、他人のどこからか借りてきたような言葉で済まそうとしているため心が込もっていない。つまり相手の立場に立って考えるという基本が欠如している。
子供に対する教え、しつけはいつから始めるのか、という問いに対して、三代さかのぼったところから始めなければならないといった言葉がある。一朝一夕に成せるものでもない。さらに今現在の教育しつけが三代のちの子孫に影響すると言うことである。それに親だけの責任、先生だけの責任ではなく、祖父祖母の世代、つまり家庭全体、引いては地域全体が今の子供たちのしつけに責任を持たなければならないと言うことである。
祈りの原点は感謝である。そして反省すること、懺悔である。他人や世間に色んなものを求めすぎて自分の存在が曖昧な状態になっている。経済的に裕福であっても心豊かな生活を送っているわけではない。今あることへの感謝、生まれたことへの満足感に気付くためには知足、足ることを知るべきである。何もかも必要なものは全て与えられている。それに気付くためには自分自身を見つめることであり、反省であり感謝である。
禅宗では食事の前に食事五観文をお唱えする。今これから頂く食事に対して、食材とそれに関わってきた全ての方々に感謝し、この食事によって今日一日自分自身をしっかり見つめて正しき仏道に精進します、という内容である。食べ物にはたくさんの教えが詰まっている。精進料理もただ殺生しないと言うわけではなく野菜そのものを如何に無駄にせず使うのか。あるいは食べれなかったものをどうやって次の命に繋げていくのか・・・つまり如何にそのものを生かすか、それが不殺生ということであり、そこに食材と同じ立場に立った真剣さがあり、反省があり、感謝が生まれるわけである。
日々の食事の中で感謝の思いを繰り返すことで、習慣化し、たとえ苦しくても、いや、苦しいときこそ感謝の心で手を合わせることを忘れないようにしたい。

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ハイ

えー
第3部は
学校教育について

ウン

まー
学校の先生方に
シテミタラ

余計なお世話かもしれません

んが
マァ

ソコハ
広い心で
オネガイシマスヨ

ハイ
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by kouhouji | 2007-02-11 19:45