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2007年 02月 13日 ( 1 )

コッチが第3部

ってことです

ハイ

えー

サッキ
帰って
来ました

今年は
マジ

イヤ

これから
数年
皿に

あ、
更に
忙しくなる

・・・
アーモー

このコトバ
キライ
なんだよね~

「忙しい」

・・・

デモ
今回は
どう
タイヘンに
なるのか

まだ
見当がつかない
から
チョット

心失う
状況ですね

ウン

ん?

ウン

マダ
ここには
カケマセンが

大きな
事業に
入ります

オソラクね

ンナもんで

遅くなりましたが
第3部
デス

ワタクシ
この討議のとき
もう
なんか
ウレシカッタデス

ナンカ
頭の中の
パズルが
完成したみたいで

ウン

あーのー

判りにくかったらすいません

マタそのうち
翻訳します

たろお風に

ハイ

でわ
ドゾ

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学校教育について

最近の子供たちは言葉使いが悪い。先生、大人、目上に対する敬いを知らない。それなのに権利を主張し、ちょっとしたことで上げあしを取る。テレビをつけると他人をいじって笑い転げる芸人、客席を見て育った子供たちにこのことを伝えるのは難しいだろう。メディアの成長により膨大な情報量からその選択が出来ない子供たちは、その様子を見て笑っている多数派に加わって安心しようとするため罪の意識無くそのまねをする。
そんな子供たちを叱るべき大人は、自分の子供は叱れても、他人の子供は叱れない。先生ですら怒る先生が少なくなった。これは怒る事を周りの親が奪ってきた結果である。あまりにも尊敬に値しない先生がいたことも事実であるが、その結果先生も、社会も、お寺も怒る事から逃げてきた。
ある和尚さんが余りにもうるさい子供を注意した。注意したのは子供ではなく親に注意した。すると嫌な顔をするどころか申し訳なさそうにその親は子供を諭した。実はこのようにして注意すると殆どの親は嫌な顔をするどころか逆に感謝されるそうである。メディアで取り上げられる素晴らしいと言われる先生も子供たちの目線に立って怒ってくれる先生である。我々大人は、怒る=めんどうくさいという構図を意識し、怒るという行為から逃げてはいないだろうか。
今の世の中は論理が成立すること、裏を返せば成立しさえすれば何でも許されると言う風潮がある。しかし、この論理を作り出すのはそもそも人間の情である。情なくして論理はありえない。つまり根本は人間自身の中にあるということである。例えば今のコミュニケーションで最も発達してきた手段がメールである。これは手段としては最も機能的であり効率的で論理に叶っている。あいさつすら文書として送られてくるだけである。しかし、あいさつをメールに表記すると言うことはそこに人としての情が存在するからである。でも結果として言葉が交わされることはない。つまり結果が優先されている、デジタルな社会である。
ここに着目すべきである。今の社会は結果を優先する余り、めんどうくさい、非効率なことを極力省いてきた。しかしそこに大事なものがたくさん詰まっている。特に言葉を発すると言うこと・・・怒ることも挨拶をすることもコミュニケーションとして人と人とを結びつける重要な役割がある。それによって本来あるべき人間関係を改めて構築すべきである。
結果ではなく過程に意味がある、そう考えることは、学校の中でも救われる子供も増えてくるのではないか。勉強や運動だけではない・・・それこそ本来のゆとり教育であり、心のゆとりである。
禅宗の修行道場での生活は非効率なことばかり、つまりアナログ生活である。この面倒くさいことを敢えて行うことが心のゆとりを生み出すのではないか。
ある和尚さんが檀家から質問を受けたが、もっともらしいことを言わなければならないと、躊躇して結局何も言えなかった事があった。しかし人は結論を求めているばかりではない。
朝比奈老師のところへある方が会社の再建の相談に来た。一通り話を聞いて老師はこう答えられた。「あーうーん・・・そう・・・困ったね」しかしこれを聞いてその社長はお礼を言って帰ったと言う。ここで社長の真意は測れないが、老師のような方でも本気で悩んでしまうことがあるのだろうか、と考えて心が楽になったのかもしれない。つまり結果が出なくてもヒントだけでも人は救われることがある。
お寺は、和尚さんは学校教育で失われたアナログな部分を積極的に推進する地域の中核になるべきではないだろうか。

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ハイ
長文でスイマセンっす

デモ

ウーン

良かったヂョ
コレ

デワ
次回
最終回~
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by kouhouji | 2007-02-13 20:50